1985年、滋賀県生まれ。幼少期から体を動かすことが得意で小学生の頃はスポーツ少年団に所属。スキーや陸上競技の他、キャンプ活動などを通して仲間との連帯や友情、協調性などを育んだ。小学3年の時、父親の勧めでフェンシングと出合う。スーパーファミコンを買ってもらう約束で始め、手に入れたら辞めるつもりだったが次第に楽しくなり、毎日練習を続けるうちに上達していった。小・中学時代に全国大会を制覇し、平安高校時代には史上初となるインターハイ3連覇を達成。また、高校2年の時には全日本選手権で史上最年少記録で優勝している。
太田さんは日本代表選手として、五輪、世界選手権、アジア競技大会などに数多く出場している。記憶に残る試合の一つは、自身2度目の出場となった2008年開催の北京五輪。フェンシング男子フルーレ個人に出場し、日本人選手として初めて決勝戦へ進んだ。試合は録画放送が予定されていたが太田さんの快進撃を伝えるためNHKで生放送され、銀メダルを獲得した太田さんにもフェンシングにも注目が集まった。北京五輪後は森永製菓㈱に所属。練習に集中できる環境で研鑽(さん)を積み、日本フェンシング界の先駆者として活躍。2009年には世界ランク1位、2012年開催のロンドン五輪ではフルーレ団体で銀メダル、2015年にモスクワで開催された世界選手権ではフルーレ個人で金メダルを獲得している。
フランス生まれのフェンシングは、日本では欧州ほどの人気はない。太田さんは現役の時から自身の知名度を生かし全国各地でフェンシングの普及活動を始めていたが、2016年8月に引退発表後、WIN3㈱を設立してフェンシングの人気向上に取り組んでいる。2017年6月、日本フェンシング協会の理事に就任。同年8月には柔軟な発想力を期待され31歳という若さで、同協会の会長へ昇格した。フェンシングは一瞬で勝敗が決まり、しなる剣の動きを目で追いかけるのは難しい。太田さんはフェンシングがエンターテイメント性に満ちたスポーツになればと考え、剣の軌道をデジタルの線で示す技術を用いてルールがわからなくても楽しく観戦できる工夫や、演劇が上演されるような劇場での競技開催、インターネット配信の導入などを取り入れた。また、経営・広報・マーケティングなどの専門家を招き、協会運営の基盤を安定させ、経営者としても手腕を発揮した。フェンシング以外の活動では、東京五輪開催に向けた誘致活動でアンバサダーを務め、2013年の国際五輪委員会(IOC)総会でプレゼンテーションを行うなど、誘致を実現した。
太田さんの活躍は次世代に影響を与え、フェンシングを始める子どもたちも増えた。パリ五輪の フェンシング男子エペ個人で金メダルを獲得した加納虹輝選手は、北京五輪での太田さんの銀メダル獲得を見てフェンシングを始めた一人だ。太田さんは国際フェンシング連盟の理事として、また日本五輪委員会(JOC)の専務理事として、日本のスポーツ界の発展のために力を尽くしている。