垣見(かきみ) (かず)(まさ) (86)

 1939年、東京生まれ。早稲田大学商学部卒業。順心女子学園中学校・高等学校(現 広尾学園中学校・高等学校)で英語教師をしていた1990年、ヒマラヤ登山のため初めて訪れたネパールで雪崩に遭遇。垣見さんは九死に一生を得たが、同行のネパール人ポーターが犠牲になった。2年後、彼の出身地であるドリマラ村を訪ねた垣見さんは、飲料水の確保もままならない寒村の状況に衝撃を受けた。劣悪な環境の中で暮らす村人を助けたいと1993年、54歳の時に23年間勤めた学校を退職。家族を日本に残して単身でネパールに移住し、草の根のボランティア活動を開始した。
 首都カトマンズから200キロ離れたパルパ県のドリマラ村でテント生活を開始。ネパール語が分からず村人から何かを頼まれると、英語で「OK! なんとかしてみるよ」と応じていたことから「OKバジ」と呼ばれるようになる。「バジ」はマーガル語で「おじいさん」という意味。村人の生活を改善させながら粗末なテント暮らしを続ける垣見さんに、村人たちは6畳ほどの広さの土づくりの家を贈った。ドリマラ村での生活になじむと周囲の村に通い始め、多くの村でドリマラ村と同様に水が不足し、医療や教育が行き届いていないことを知った。自ら足を運んで要望を聴き、彼らが必要としている支援を行った。親身になって相談に乗り、解決するまで共に歩んでくれる垣見さんは行政より頼りになる存在。訪ねる村々には活動拠点となる場所が用意されるようになった。これまでにヘルスポストづくりなどの医療支援、学校・図書館建設や奨学金支給などの教育支援、農業・生活用水設備の設置建設といった水プロジェクトなどを実施。また、バイオガス施設やつり橋の建設を通して生活環境の改善を図る他、農業技術指導や家畜購入資金援助など自立支援につながる活動も行ってきた。
 多民族国家のネパールでは複数の民族がそれぞれの言語や文化を持って生活しているが、小学校ではネパール語で授業が行われる。ネパール語の読み書き習得が必要だが、子どもたちが生活の中で覚えるのは民族の言葉。垣見さんは“国を変えられるのは教育”という信念の基、日本人に支援を呼び掛け、就学前の子どもがネパール語を学ぶための小さな学校を250校以上も建設し、就学率アップに貢献。併せて、親が学費を払えない子どものために奨学金制度も運営している。病院が近くにない村ではヘルスポストに常駐する看護師が妊婦の指導や乳幼児の健康管理を行うことで乳幼児の死亡率は低下した。先進国では風邪で亡くなることは少ないがネパールでは命取りになる場合もある。各地に設置されているヘルスポストが病気が重傷化しないことや重篤な患者を病院での治療につなげることに役立っている。
 30年以上活動を続ける中で、多額の資金が必要な場合はネパール政府や現地の日本大使館、ネパールで活動している奉仕機関などへも交渉し、支援を実現してきた。村人の生活に密着した献身的な活動はネパール国王にも届き、1997年にゴルガダッチンバウ勲四等勲章を授与された。日本では2009年に、吉川英治文化賞を受賞している。垣見さんは依頼が減る雨季の6月~7月には帰国し、日本の支援者への活動報告や支援の輪をさらに広げるための講演会を行っている。86歳の今も、健康で、活動を続けたいと願っている。